海外のアニメファンが選ぶ「泣けるアニメ」ランキングでは、常に上位に入る「火垂るの墓」。今回は、この作品を観た海外の映画ファンによるレビューを翻訳して、皆さんにお届けします。レビューは、Amazonと映画レビューサイトIMDbから抜粋しました。※Amazonの採点は満点が星5個、 IMDbは星10個となります。「評価無し」のレビューもIMDbのものです。また、ネタバレを含んでいますので、作品未見の方はご注意下さい。 ↓では、レビュー翻訳をどうぞ。
▽続きを読む▽
● 「立ち直ることが難しく、忘れることはできない」 アメリカ 評価:
★★★★★★★★★★ 最初に言っておきたいのだが、もしあなたがこの作品をまだ観ていないなら、このレビューを読んだ後(もしくは読む前でも)、できるだけ早くこの映画を観るべきだ。買っても借りてもいい。なぜなら、イサオ・タカハタが生み出したこの傑作の価値を伝えるのに、私の言葉だけでは不十分だからだ。私の知る限り、最も力強いメッセージを持つ反戦映画、それが「火垂るの墓」だ。芸術作品としての価値で語るなら、ピカソのゲルニカやエルガーのチェロ協奏曲と同ランクと言える。 多くのアメリカ映画の中で、これほど強力な反戦メッセージを持つものがあっただろうか?「華氏911」?「地獄の黙示録」?それとも「シンドラーのリスト」か? 率直に言って、どれもこの作品に及ばない。「火垂るの墓」は、汚れなき魂の喪失を描いた作品だが、それは幼い二人の主人公のことだけではなく、日本という国全体にとっての話なのだ。 ストーリーの中心となるのは二人の子どもたちだ。13歳の清太と、4歳になる彼の妹の節子。彼らの母親は第二次大戦中、爆撃のために命を落とす。そのため、この兄妹はおばの元に身を寄せることになる。最初は親切だったおばだが、次第に、なぜ兄妹に食べ物を与えて保護しなければならないのか? なぜ清太は国のために働こうとしないのか?と、不快に思うようになっていく。 結局、清太と節子は、廃墟となった防空壕で、二人だけの暮らしを始めることになった。しかし、食料がなかなか手に入らず、徐々に栄養失調に陥ってしまう。そして、彼らは命を落とすのだ。実は、映画序盤から、彼らが死ぬことは明らかにされている。ボロボロの服をまとって、駅構内に横たわる清太、栄養不良の状態にあることは明白だ。彼の持ち物だったミステリアスな缶を、駅員が夜の闇に向かって投げ捨てた。そこにはホタルが舞っており、節子の幽霊が現れる。そこに清太の幽霊が加わり、彼らは電車に乗って、あの世へと旅立つのだ。ストーリーは、そこからフラッシュバックされる形で語られていく。「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ」これが出だしのセリフだ。 この映画で興味深いのは、日本の作品であるにもかかわらず、日本人を犠牲者として扱うこともなければ、アメリカ人を悪者扱いするわけでもないというところだ。むしろ、苦しんでいる子どもたちを冷たくあしらう日本の人々に対しての軽蔑が感じられる。タカハタは、戦争で真に失われるものは生命ではなく、汚れなき魂であると訴えているのだ。 アニメーションそのものは、リアリズムに基づく伝統的なスタイルで、ディテールも豊富だ。キャラクターたちの死を悲劇的に描く一方で、美しい瞬間も多く描かれている。だが、この作品に称賛されるべきシーンが数多く含まれているのは、別に不思議なことではない。なぜなら、この作品を製作したのは、日本の伝説的なアニメーションスタジオである、スタジオジブリだからだ。私は幸運にも、このスタジオが作り上げてきた息をのむような作品の数々を鑑賞する機会に恵まれてきた。 「火垂るの墓」は、ストーリー、その象徴的意味、アニメーション、全てが一体となって、まるで腹に強い一撃を食らったような心の衝撃を感じる作品で、そのショックから立ち直ることは難しく、忘れることは不可能な作品だ。アニメーションではあるが、極めて生々しくもある。実写映画ではないという理由で、作品の力強さが損なわれるわけではないという点にも気づいてもらえるだろう。 あなたに、立ち直れないほど落ち込んでも構わない夜があるなら、是非、「火垂るの墓」を観て頂きたい。これは、決してあなたが喜んで観たがるタイプの作品ではないが、しかし、決して、観たことを後悔する作品でもない。 ● 「非常に日本的な戦争物語」 イギリス 評価:
★★★★★★★★★★ もし僕が映画を観て泣くとしたら、それは他の人たちなら、普通は泣かないようなタイプの映画を観たときだ。例えば、僕は侍映画を観て泣いたりもする。壮大なシーンで、少し感情的になったりもする。ただ、いずれにせよ、「火垂るの墓」を観たときのように号泣することは稀だ。 僕は、子供時代の大半と思春期を日本で過ごした。広島でも1年ちょっと過ごした。日本では、多くの元軍人と会ったり、お年寄りから戦争中の体験談を聞いたりしてきた。恐らく、皆も知っているだろうが、日本人は感情をあからさまにすることで有名な人々、というわけでは全くない。感情を表に出さないことに関して、平均的な日本のお年寄りに勝てるイギリス人は一人もいないだろう。 彼らが戦争の話をする時は、いつも感情を表さなかった。事実を淡々と語ってくれたものだ。長崎の爆心地から5マイル(※ 約8km)の場所で被爆した人の話も聞いたことがある。その中で、僕に忘れられないほど強い印象を残したのは、ゴトウさんという老夫婦から聞いた話だ。 ゴトウさんたちは、子供の頃、名古屋大空襲の直後に出会ったそうだ。そして、その当時の状況を「火垂るの墓」の写真を使って、僕たちに詳しく説明してくれた。アメリカ海軍の航空機は、川に向かって走る子どもたちに機銃掃射を浴びせたらしい。もちろん、子どもたちは本来の攻撃目標ではなかったにもかかわらずだ。当時12歳だった僕が日本を理解する上で、彼らの話からは強い影響を受けた。 だから、僕にとって、この「火垂るの墓」を観るのは、彼らの話を映像で詳細に振り返るようなものだった。彼らの子供時代の記憶が、映像でよみがえったものであるかのようにも感じた。彼らの個人的な苦しみを、僕の心にも背負わされたようにさえ感じた。少々、感情的になりすぎたかもしれないということは認めるが、僕は、本当にそんなふうに感じたのだ。 戦時下の悲劇は、世界中、全ての文化や社会において共通して語られるものだが、「火垂るの墓」は、ストーリーそのものよりも、ストーリーの語り方が日本的で、かつ、他に類を見ない独特なものだ。他の国の映画製作者たちも、このアイデアで作品を作ろうとするかもしれない(ロシアの映画製作者は除く)が、この作品よりも人の心を感動させるものを作ることはできないだろう。 一切の誇張を交えずに言わせてもらうが、映画の歴史の中で、戦時下の無垢な魂をあれほど完璧に、悲劇的に、胸が張り裂けるように描いた作品は存在しない。しかし、大げさな表現は何もない。同じジャンルの他の映画(忘れてほしくないが、これはアニメーションだ)が馬鹿馬鹿しい仕掛けを色々と使うのに対して、この作品は、物語だけですべてを伝える。音楽ですら、やりすぎることも感傷的になりすぎることもない。 ストーリーの結末が最初から分かっているのに、それでも観客を引きつける力があり、それどころか、涙さえ流させる作品だ。感情に訴える力があまりに強いので、僕としては、繰り返し観たいとは思わない。全く救いのない悲劇的な物語ではあったが、それでも、僕は、この作品を観ることができて良かったと思っている。 ● 「なぜホタルはすぐ死んでしまうのか?なぜジブリはこんな良い映画を作れるのか?」 カナダ 評価:
★★★★★ 僕がこの映画を初めて観たのは、確か6歳くらいだったと思う。その年齢では、映画の本当の意味は理解できなかった。ただ悲しくて泣いた。次に観たのは13歳頃だった。僕は最初の5分で泣いてしまった。それから2年間、この映画を観ようという気持ちになれなかった。ついに観たのは15歳の時、この時も、やっぱり前半のうちに泣いてしまった。 その後、この映画について何人かの人たちと話をしたけれど、彼らも、やっぱり、ショックを受けることは避けられなかったようだ。あのリアリティのある絵柄の力も大きいのだろう。 イサオ・タカハタ監督は、「火垂るの墓」で素晴らしい仕事をしたと思う。ストーリーの見せ方は、僕がこれまでに観た作品の中でも、最上の部類に入るだろう。この映画では、冒頭ですぐに主人公の運命が分かる。このシーンを観終えた多くの人々はこう言うだろう。「この後、いったい何を目的に映画を観たらいいんだ?」と。今の僕なら「この先を観ないのなら、最も美しい映画を鑑賞できるチャンスを、自ら奪ってしまうことになりますよ。」と答えられる。 このオープニングさえ乗り越えられれば、観客は、清太と節子の心温まる関係性、そして悲しい出来事から目をそらせなくなる。清太と節子の強い結びつきは、時として観るのが辛くもなるが、それでも、観ないわけにはいかなくなってしまう。 ただ、僕が最も素晴らしいと思うのは、この映画には悪役がいないということだ。登場人物の誰もが、ひたすらに、ただ自分の人生を生き抜いている。そして、絶望的な状況では、人間の本当の姿があらわになる。戦時中における人間の本性を見せてくれるのが、この映画だ。人々は相手を殺し、出し抜く。そして、自分の事だけで精一杯だ。ついてこれない者の面倒は、誰も見てくれない。 厳しい現実だが、監督は、それを受け入れるよう、観客に求める。僕は、この映画が描いているのは、人間の本当の姿なんだと感じた。憂鬱ではあるが、観客に覚醒を促すものでもある。 最後に問いかけたいんだが、人類は今も、過去と同じ歩みを繰り返しているだけなんだろうか? それとも、これ以上、清太や節子の悲劇を繰り返さないように進歩したんだろうか? ● 「銃なし、政治的プロパガンダなし、暴力シーンなし」 マレーシア 評価:
★★★★★ 戦争によって引き裂かれた時代を、自分たちの力だけで生き延びようとする子どもたち…。だが、彼らの努力が報われることはなかった。映画が終わった時、私の気持ちがどれほどかき乱されたことか…。まだ立ち直ったわけではないが、今、そのことをここで語るつもりはない。ただ、この作品を反戦映画と見なすことは、映画本来の目的とは少々ずれがあるようにも感じた。私としては、むしろ、戦争という最悪の状況に苦しめられた子どもたち、そして、彼らから見た世界の姿を描いている映画なのだと思う。 この作品を観て何も感じなかった人、うんざりした人、あるいは上映中に眠ってしまったような人たちは、思いやりが失われた、今の社会の影響を強く受けてしまったのだろう。一人で生活し、隣人ともほとんど口を利かないような暮らしをしている人たちである可能性が高いと思う。この作品を観て泣かないような人は、魂を失ったも同じだ。 事前にこの作品のレビューをほとんど読んでいなかったので、映画が始まった時は少々驚いた。冒頭で主人公の死が告げられ、彼の死体が示されたからだ。普通は、こんなことをすれば観客の興味を失わせるだけだが、私は逆に興味を惹かれた。ただし、その後の展開には、私の内面が木っ端微塵に破壊された。この作品は、甘いものでも、心温まるものでもない。 兄妹が防空壕を照らそうとホタルを集めるシーンですら、心楽しくなるものではない。むしろ悲しいシーンだ。今の時代なら、明かりがなければ、せめて店でローソクくらいは買えるだろうに…。だが、この幼い兄妹には、ホタルを集める以外の方法が無いのだ。個人的な経験から言っても、ホタルをつかまえるのは大変だ。しかも、大変な思いをしても、ほんの束の間の明かりにしかならない。 この兄妹が、彼らのおばを頼ろうとしないことに対して批判的な人々がいるが、日本人は、必要性よりも誇りを第一に優先せよと教育されるものだ。この兄妹は名誉を傷つけることはしないようにと教わって育った子どもたちなのだ。それで彼らの行動の説明がつくだろう。 「火垂るの墓」は、観る者の心をつかんで、決して離さない物語ではあるし、丁寧に作り込まれた物語でもあるが、これは戦争映画ではないし、反戦映画でもない。まして、反米メッセージを潜ませた映画でもない。戦争中、あるいは戦後であることが、決定的に深い意味を持つわけではないと感じた。生き延びることだけが問題という、本当に苦しい状況の中で、どうにか生き延びようとして、それを果たせなかった小さな二つの魂の物語なのだと思う。 この映画のタイトルが、全てを説明しているのではないだろうか?ホタルは闇の中で輝く美しい存在だ。しかし、ホタルが死んでも、その墓がどこにあるかは誰も知らない。知ろうともしないものだ、と。 ● 「真実を描く”嘘”」 アメリカ オハイオ州 評価:
★★★★★ 第二次世界大戦の末期、戦火に包まれた日本の幼い兄妹を描いた「火垂るの墓」について、映画評論家のロジャー・エバートが「過去最高の戦争映画リストに入る作品だ」と発言しているのを知った。私は興味を抱くと同時に、疑わしくも感じた。その後、図書館でこの作品を借りたのだが、観終えたあと、もう一度自分で観るため、そして友人たちにも観てもらうため、アマゾンで注文することにした。 私には兵士としての経験(ベトナム)があるが、戦争映画を観るのは敬遠しがちだった。映画製作者たちの自虐癖に対しても、誤った力の誇示に対しても、吐き気を催すからだ。しかし、「火垂るの墓」については違う感想を持った。 特定の戦争に巻き込まれた特定の一般市民をフィクションとして描いたものではあるが、すべての戦争における、苦境に陥った一般市民の真実を伝える作品でもあった。もちろん、陽気な作品ではない。戦争における罪なき犠牲者たちの大部分は、無私無欲な人々だ(全てがそうだとは言わない)。彼らを品格ある視点から描くことで、戦争の本質とも言える悲しみを表現していた。 自分の敵を愛せない、もしくは味方を愛せない人たちは、この映画を観ることで、得るものがあるだろう。説教臭くはなく、むしろ詩的な作品だった。 戦争に勝者や敗者がいるわけではない。人類すべてが勝者だ。 ● 「深く心を動かされた」 アメリカ フィラデルフィア 評価:
無し 涙を流しながら、この映画を観た。私は、2人の小さな子どもたちの父親だ。映画を見終えた後、彼らの部屋に行き、眠っていた子どもたちにキスして、「愛しているよ。」とささやいた。こんなことになったのは、何年ぶりだろう。観たのは2日前なのに、まだ頭から離れない。長い時間をかけて、この映画について妻とも話し合ったし、ネットで調べたりもした。個人レベルで、映画から、ここまで強い影響を受けたのは初めてのことだ。 「火垂るの墓」の製作者や、この物語そのものについて調べていくうちに分かったのだが、この作品には、象徴的、文化的な意味を持つ要素も表現されていたようだ。西洋人である私には理解しにくいものもあったので、この点についてはコメントを控えようと思う。 この映画に込められた戦争に関するメッセージの中に、「最も苦しむのは最も弱い人々だ」というものがある。ルワンダやソマリア、スーダン、バルカン半島など、戦争によって傷ついた地域の報道に接するたびに、以前より、心を痛めるようになった。さらに、我がアメリカが、そうした他国の戦争に関心を払っていないように見えることも、困ったものだ。 私も5歳の息子と2歳の娘の父親だから、親として、私の子どもたちが、誰からも助けてもらえない状況に置かれるかもしれないということを想像すると、とても恐ろしい。そして、清太と節子が味わったような苦しみを、他の誰にも味わってもらいたくない。しかし、今も、現にこうした人々がいるのだということを知ってもらいたいし、精神的な苦痛や飢えに関することも含めて、彼らに助けの手を差し伸べたい。 私は子供の頃、第二次世界大戦に関する本を沢山読んでいたから、我々の国が日本の複数の都市を爆撃したこと、海軍機が小さな町に機銃掃射を浴びせたことなどは、知識として知っていた。この映画は、その歴史が現実のものだったということを、実にリアルに見せてくれた。福音主義のキリスト教徒として、我々が、善良な人々に対して、いかに残酷なことをやったのか、どれほど多くのものを破壊したのかということを、改めて強く認識させられた。 この映画に対するロジャー・エバートのレビューも読んだ。そして、過去最高の戦争映画の一つであるという、彼の言葉に同意する。私個人も強い衝撃を受けた。娘を見るたびに、節子のことを思い出さずにはいられない。彼女の美しさ、悲しさ、そして無垢さを。この映画を観て頂きたい。ただし、一人で観てはいけない。子供向けのものではないことも覚えておいてもらいたい。これは、単なるカトゥーン以上のものだ。 ● 「偉大な傑作アニメーションの一つ」 アメリカ 評価:
無し 5歳の頃、僕は大好きなカトゥーンを観るため、毎朝、早起きしていた。ある日、僕はいつもより、かなり早く起きてしまった。午前3時頃だったはずだ。それでも、僕はいつもどおりテレビを観ることにした。何も映っていなかったので、チャンネルを変えて、普段とは別のチャンネルの番組を見ることにした。そのチャンネルを数分観続けた後、始まったのが「火垂るの墓」だ。 その当時の僕には観たこともないような、シリアスなアニメ映画だった。最初に映ったのは2人の幽霊だ。なんとも平和そうな姿だったことを記憶している。少々奇妙には感じたが、怖い映画のようだとは感じなかった。 しかし、そのすぐ後で恐ろしいシーンが映った。爆弾が投下され、建物は破壊され、混乱の中で人々はむごい死を遂げていった。少年と彼の妹も混乱に巻き込まれ、命からがら逃げ出す。兄妹のお互いに対する愛情、特に少年が妹を思いやる姿に、僕は涙を流した。同時に、人々がお互いを気遣い合う姿にも印象づけられた。そんな映画は観たことがなかった。愛情と絶望が同時に描かれた作品に、幼い僕はショックを受けた。 物語はその後も続き、兄妹に課せられた試練はどんどん過酷になっていく。映画の終盤では、僕は息をするのも難しいくらいになっていた。子供だった僕にとって、この映画は本当に強い衝撃だった。心が深く傷ついたようにすら感じた。映画を観終えた僕は、泣きながら眠りについた。再び目覚めた時、僕は夢でも見ていたんじゃないかと思った。 あの頃より成長した今でも、「火垂るの墓」のように、強く恐れ、同時に愛した映画というものを経験したことはない。そもそも、こんな映画が他に存在するのだろうか?幼かった僕は、この映画を怖がりつつも、内心では、もっと映画の内容について深く知りたいとも感じていた。あれから13年が経過した。あの頃より、もっと深い内容が理解できるようにもなった。 この映画は、あれ以来、観ていない。でも、まだ鮮明に覚えている。音楽も映像も、その時の気持ちも…。僕はこの映画を忘れることができない。もう一度観ようと決意して、手に取る日は来るのだろうか?必ず来ると思う。再び観たその時に、自分がこの映画からどんなメッセージを受け取るのか、それは必ず確かめておかなければならないと感じるからだ。 (翻訳終わり)
管理人より:宮﨑駿監督の著書「出発点」に、「火垂るの墓」について書かれた文章(P.270)がありますので、以下に一部引用します。 空襲で家と母を失い、飢えと栄養失調で死んだ四歳と十四歳の兄妹の二人の幽霊が、なぜ母の幽霊と出会わないのか。母と二人は別々な世界に行ったのか。生に執着し、恨みを残して死んだのなら、二人の幽霊は死ぬ寸前の飢餓の姿であるはずなのに、なぜ肉体的に何も損ぜられていない姿をしているのか。
コプトの修道士たちが、この世との絆を断ってナイルを西へ渡ったように、あの二人は生きながら異界へ行ったのだ。二人が移り住む防空壕は、砂漠の僧窟がそうであるように、二人が生きたまま選んだ墓穴なのだ。兄の甲斐性なしを指摘する者がいるが、彼の意志は強固だ。その意志は生命を守るためではなく、妹の無垢なるものを守るために働いたのだ。
二人の最大の悲劇は、生命を失ったところにはない。コプトの修道士のように、魂の帰るべき天上を持たないところにある。あるいは、母親のように灰になって土に化していくこともできないところにある。しかし、二人は幸福な道行きの瞬間の姿のまま、あそこにいる。兄にとって、妹はマリアなのだろうか。二人の絆だけで完結した世界に、もはや死の苦しみもなく、微笑みあい、漂っている。
「火垂るの墓」は反戦映画ではない。生命の尊さを訴えた映画でもない。帰るべき所のない死を描いた、恐ろしい映画なのだと思う。
(引用終わり) 過去の映像作品レビュー翻訳記事を、以下に一部ご紹介します。興味のある方は御覧ください。なお、次回の更新は来週8月4日(金)です。 ・
「七人の侍」を海外の人々はどう観たか? ・
「もののけ姫」 米アマゾン・レビューの翻訳 ・
「君の名は。」を観た海外の人々は何を感じたか?